ToxReplica

偽毒

生きるとはつまりどういうことだったのか、自分のものと他者のものを比べても仕様のないことだとは思うのだけれど。
戻らない変化とそれでもそこにいることは、それはつまり生きているということに含まれるのだろうか?
例えば過去の私はもういないが、今の私はここにいる。
例えば彼はもういないが、彼を覚えている私はここにいる。
彼の意識、自我、人格、そういったものが新しく更新され、此岸へ痕跡を刻んでいくことはもうないけれど。
その観点で言うならば私はまだ此岸にいる。足跡があるかどうかは、わからない。

例えばレーシュという存在がいたとして。
彼らの内側の名前を証明する術はないとして。
互いを証明できる、対の相手が喪われたとして。
遺された片割れは、それは誰なのか?

葬送は、存在したことの証明であるのかもしれない。
知らないものを送ることはできるか?

あなたは誰に生きていてほしい?
わたしは誰に生きていてほしい?

私は確かに生きているだろう、だがこの肉体の中にいるのは本当に私か?
肉体だけが個々の意識の境であるとあなたは本当に信じているのか?

かつては私が私を望んでいた、だから私は私のために生きることができた。
いまはそうではない。その私はもういない。私には権限がない。
私において私より偉い人間はいない、いてはならないはずだ、が、私はそうではない。

孤独でなかった「私たち」は「私」になった。
もはや孤独である。

強烈な喪失によってやっと、他者の実在を認識した?

私はただ不甲斐なさを感じている。
生きたかった人がいる。それはそうだろう。私だって生きたい。どうすれば生きることができる? 生きるとは何か?

なんか自己実現と生物学的生存をごっちゃにしてない??

私の生物学的生存を、それが必要な誰かに明け渡せと言うなら(きちんと活用される見込みがあれば)喜んで明け渡すけれど、それは現実的手段とはあまり言いにくい。
自己実現しろと他者が「私(という独立主体の運営)」に言うなら、うるさい黙れとしか返しようがない。
えっなんかそれ以外問題ある??
あっこのごろの財布のひもがゆるいのはゆるして わかってる

何だろうな、親父さまが健やかに生きてほしかった「**」はこの文章を書いている「この私」ではない気がするんだよな。真偽を訊こうにももう本人いねえし。

後悔しないように行動しよう、に尽きるんだよな!!
後になって何を後悔するかのすべてを事前に網羅するの無理だけどな!!
その時の自分なりの全力を尽くして生き抜け!!

れーやんも言ってたけど(私が書いたはずだが)、『あなたの場所に居られるのは、ほとんどの場合、あなただけなのです』、なんだよな……
****という人生を誰かに肩代わりしてもらえることもなければ奪われることもない。
いくら「この私」が凡庸で変質しきっていたとしてもだ。
「この私」が他者やかつての自分に望まれる「私」であろうとなかろうと、やり抜くしかないのだよ、聞いているかい。