ToxReplica

偽毒

困惑

これは私が思考を整理するためのエントリです

ひたすらに自分語りでありそれ以外の要素や意図を含みません。


概要

メンバーの事件とグループの言動およびそれらへの報道や言及を見ていると私が心中穏やかでない、つらい、胃と頭が痛い


わからない

私が今見ているこの光景は本当に現実のものなのかという疑いが私の中にある


この話題によって私が傷付くのは筋違いである

私はこの件において、被害者でも加害者でもない。
強いて言うなら他人と言う名の傍観者である。
首を突っ込む資格も理由も立場も何もない


なぜこうなのか

メンバーとその所属が有名だから?
これはこんなに大きく扱われる事なんだという驚きが私にある
驚きがあるということは私は今までそういう認識ではなかった
そんなことはありえない、私の被害妄想だ、そう言われるのが当然だった?


なぜこうでなかったのか

我々はメディアに出るタレントではなく、そもそも私の事はつまびらかにはなっていない
私はただひとり陰鬱としたり興奮したりしている、ただひとり、私だけが


自分の中での切断操作ができない

いやまあ全てはケースバイケースであり同一視する方が邪悪(持論)なんですけど、だがしかしうまくいかない
全く親近感のない知らない政治家の事案とかだと、はじめから完全に切断操作されていて私の心中は波立たない(その政治家の行いが許される、という意味ではない)

前回の記事を和訳してみた

前回までのあらすじ -> https://toxreplica.hateblo.jp/entry/2017/08/05/213457

生きるとはつまりどういうこと?

  • 私の報いたい親父様、が求めていたであろう、「私の生存」の要件定義がわからない
  • 現在の私の在り方は、親父様の求めていたであろうものとは違うのではという疑念がある

生きていますか?

  • 私は、生物学的には生きていると言える
  • 私は、自己実現的には、生きていると言えるのか?

葬式とは

  • 生きていた者が死んだと思ったから葬式は行われた
    • 葬式が行われた者はそれまでは生きていた?

私は誰だ? 誰でありたい?

  • 「私の思う私」は「(任意の相手)の求める私」とイコールで結べるか?
    • なんかこういう言い回し倫理の授業でやった

  • 親父様の印象にあるであろう、輝いていた頃の私はもういない

権利と義務

  • 他者が「私(という独立主体の運営)」に自己実現しろと言うならそれは黙れとしか言いようがない
    • 個人であること、独立主体であること、の権利と義務

要件定義

  • 私の実現したい自己がよくわからない
  • 親父様に要件定義を確かめることはもうできない

後悔しないように

  • 後悔しないように行動しよう、に尽きる
  • 後になって何を後悔するかのすべてを事前に網羅するの、無理
  • その時の自分なりの全力を尽くして生き抜け!!

代打がいねえ

  • れーやんも言ってたけど、『あなたの場所に居られるのは、ほとんどの場合、あなただけなのです』、なんだよな
    • 大抵は、人生を誰かに肩代わりしてもらえることもなければ奪われることもない
    • 「この私」がどんなに凡庸で変質しきっていたとしても

結論

  • 「この私」が他者やかつての自分に望まれる「私」であろうとなかろうと、やり抜くしかない

生きるとはつまりどういうことだったのか、自分のものと他者のものを比べても仕様のないことだとは思うのだけれど。
戻らない変化とそれでもそこにいることは、それはつまり生きているということに含まれるのだろうか?
例えば過去の私はもういないが、今の私はここにいる。
例えば彼はもういないが、彼を覚えている私はここにいる。
彼の意識、自我、人格、そういったものが新しく更新され、此岸へ痕跡を刻んでいくことはもうないけれど。
その観点で言うならば私はまだ此岸にいる。足跡があるかどうかは、わからない。

例えばレーシュという存在がいたとして。
彼らの内側の名前を証明する術はないとして。
互いを証明できる、対の相手が喪われたとして。
遺された片割れは、それは誰なのか?

葬送は、存在したことの証明であるのかもしれない。
知らないものを送ることはできるか?

あなたは誰に生きていてほしい?
わたしは誰に生きていてほしい?

私は確かに生きているだろう、だがこの肉体の中にいるのは本当に私か?
肉体だけが個々の意識の境であるとあなたは本当に信じているのか?

かつては私が私を望んでいた、だから私は私のために生きることができた。
いまはそうではない。その私はもういない。私には権限がない。
私において私より偉い人間はいない、いてはならないはずだ、が、私はそうではない。

孤独でなかった「私たち」は「私」になった。
もはや孤独である。

強烈な喪失によってやっと、他者の実在を認識した?

私はただ不甲斐なさを感じている。
生きたかった人がいる。それはそうだろう。私だって生きたい。どうすれば生きることができる? 生きるとは何か?

なんか自己実現と生物学的生存をごっちゃにしてない??

私の生物学的生存を、それが必要な誰かに明け渡せと言うなら(きちんと活用される見込みがあれば)喜んで明け渡すけれど、それは現実的手段とはあまり言いにくい。
自己実現しろと他者が「私(という独立主体の運営)」に言うなら、うるさい黙れとしか返しようがない。
えっなんかそれ以外問題ある??
あっこのごろの財布のひもがゆるいのはゆるして わかってる

何だろうな、親父さまが健やかに生きてほしかった「**」はこの文章を書いている「この私」ではない気がするんだよな。真偽を訊こうにももう本人いねえし。

後悔しないように行動しよう、に尽きるんだよな!!
後になって何を後悔するかのすべてを事前に網羅するの無理だけどな!!
その時の自分なりの全力を尽くして生き抜け!!

れーやんも言ってたけど(私が書いたはずだが)、『あなたの場所に居られるのは、ほとんどの場合、あなただけなのです』、なんだよな……
****という人生を誰かに肩代わりしてもらえることもなければ奪われることもない。
いくら「この私」が凡庸で変質しきっていたとしてもだ。
「この私」が他者やかつての自分に望まれる「私」であろうとなかろうと、やり抜くしかないのだよ、聞いているかい。